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木のひげ 牟田口 嘉典さん 「パンへの静かな情熱」

2017.05.31

「僕はパンを焼かせていただいているだけ」
天然酵母のパンをつくり続けて32年。牟田口さんが発した言葉が頭を離れませんでした。


パンの道に入ったのは、当時調布市にあった天然酵母パン屋ホンビック・ルヴァン工場(以下ルヴァン工場とします)の一員になったことがきっかけでした。
小さい頃からパン職人を目指していたわけではなく、それまではパンをつくったこともない、全くの素人。ここから長いパン人生が始まることになりました。

大学を卒業してから、保育園・塾・本屋と様々な職場を経験しました。本屋では雇われ店長として働いていました。お客さんと話をして、好みに合わせて本を勧める、地道で丁寧な接客が売上トップに繋がりました。店長として好調だったある日、社長との問題があり仕事を辞める決心をしました。

「自分の中ではものづくりをしたかったんですよ。」

当時の想いが今につながっています。家具職人を志しましたが、空きがなく断念します。その後、雑誌の求人情報に載っていたルヴァン工場に興味を持ち、面接を申し込みました。

工場では、立ち上げメンバーだったピエール・ブッシュ氏が店を辞めるため、代わりの人材を探していました。今までパン生地にさわったこともないのに、行ったらいきなり仕込みの手伝いをさせられました。最初の2週間は辛くて辞めることばかり考えていました。

「生地をさわる時、ちょっと手で押してあげて、そのはずみを利用して丸めるとやりやすいよ。」
メンバーの一人からコツを教えてもらってから生地の扱い方が分かり、積極的に自分から色々と聞くようになります。ところが、店ができてまだ半年ということもあり、他のメンバーのパンづくりの知識にも限界がありました。そこで、ピエールなら教えてくれるかもと密かに連絡をとり、自分で焼いたパンを送ってはアドバイスをもらっていました。まるで通信教育です。そんな中、酵母のおこし方も教わり自分でおこした酵母でパンを焼くようになりました。他の人が配達などで不在がちになり、気がついたら一人でパンを焼いていました。

「一人で焼いていたのですっごい勉強になりました。」
その当時は天然酵母について詳しく書かれている本はなく、試行錯誤しながらパンを焼く日々を過ごしました。そんな厳しい環境が2ヶ月という短期間で技術習得に至らせたのでしょう。入社7ヶ月目にしてピエールより独立を勧められました。

知り合いからのアドバイスで中古の機械屋さんを訪ねたところ、ぼろぼろのオーブンとミキサーをメンテナンスして破格の価格で売ってくれました。日野市の格安物件も見つかり、自分で内装もしたので、安い金額で店舗の準備ができました。とはいえまとまったお金はなく、親・兄弟・友人からお金を借りて、どうにか店舗を構えることができました。

1983年10月13日、木のひげが開店します。
ところがこの日、大事件が起きたのです。オープンにむけて友人や近所の人、近隣の自然食品店にチラシを配っていましたが、焼く前日に肝心の酵母が全く働かなかったのです。結局開店初日にはパンを焼くことができず、集まってくれたお客さんには試作していた古いパンを配ったのでした。
「なんでうまくいかなかったのかを思い返すと、一般的な揮発性塗料を工場の壁に塗ってしまったことなどが考えられますね。でも今も酵母の扱いにはひやひやしながらやってます。」
その時の失敗があってから、仕込んだ酵母を分けてストックしています。

オープン当初は卸売で営業する予定でしたが、取引先が全くない状況でした。それでも友人が買ってくれればその日暮らしができると思っていました。最初は近所の人が買ってくれ、タウン誌に掲載され、お客さんが増えてきました。その後1ヶ月ぐらいで4〜5件の取引先ができるまでになりました。注文が入り始め12月から年末までは、朝3時に起きてパンを焼き夜中に納品する生活をしていました。毎日2時間ぐらいしか睡眠時間はありませんでしたが、おかげで売上は伸びました。年末最後の納品を終えた時には、あまりにも疲れて帰宅後に二人で玄関でバタッと倒れてしまいました。

開店して5年ぐらいは酵母のことばかり考えていました。口を開けば酵母の話題。
「女房に『酵母のこと以外に話はないの?』って言われてましたよ(笑)」
今となっては笑って話していますが、当時は夫婦間がぎくしゃくとしていたようです。奥さんの雅代さんやお子さんにとっては辛い時期だったのではないでしょうか。結婚してから常にそばにいて、木のひげを始めてからはパンに集中できるように、運営は雅代さんが全て行っていました。
「今の店舗スタッフ教育は、女房が中心になってやってるんだよ。僕はパンを焼けばいいんだ」
こっそり冗談ぽく話してくれましたが、雅代さんの支えがあったからこそ成り立ってきたのだと、二人を見ていると感じられました。

今でも一日中小麦や酵母のことを考えているんじゃないかと思うほど、話し出したら止まりません。もはやパンが生活の一部になっているのでしょう。仕込みをしている時には牟田口さんは『対話をする』と表現します。

「対話がうまく進む小麦とうまく進まない小麦があって、自然栽培は割といい感じで進むんですよ。それは(普段使用している)南部小麦とは違って、こう肌で触った時のやさしさっていうのかな。このえも言われぬ快感があります。」
にこっとしながらその感覚を伝えてくれました。

「グルテンが強い小麦は、こう肌に刺してくる感じなんです。(自然栽培の小麦は)生地を触っている時の感じが、やさしさとしか言いようがない感触なんですよ。対話がスムーズに進んでいきます。理想ですよね」
様々な小麦を試してきた牟田口さんにとっても、この感覚は衝撃だったそうです。

32年間、ずっと一人でパンを焼き続けてきました。そしてここ10年ぐらいで、やっと一つ一つのパンに注意を向けられるようになりました。
「それまでは、もうがむしゃらでした。今まできちんとしたパンを焼けていたのかなって自分で考えてしまいますよ」
少し余った生地に全粒粉を加え、元種をつくる工程があります。最も神経をつかうこの作業にもようやく気持ちを込められるようになりました。

東京都多摩市にある現在の店舗では、卸販売をしつつパンやクッキー・パイなどの店頭販売、カフェも併設しています。パンを焼くのは牟田口さんだけですが、女性スタッフがパイのりんごの盛り付けやクッキーなどをつくっています。中には20年以上一緒に働いているスタッフもいて、細かく指示しなくても阿吽の呼吸で意思疎通ができてしまいます。雅代さんとスタッフがてきぱきと動き、大きな力となって牟田口さんを包み込んでいる感じがしました。

「僕はパンを焼かせていただいているだけ」
もし本屋での出来事がなかったら、もしルヴァン工場の面接に合格していなかったら、もし中古の機械屋さんが古い機械を売ってくれなかったら、そのどれか一つが欠けても今の木のひげはなかったでしょう。このような出来事がパン職人の道に導いてくれたかのようです。人の助けがなければパン屋として店を構え、パンは焼けなかったでしょう。

「今は焼かせてもらっている、自分が焼いているのではなくてお役目だと思っています。」

32年間一つのことに真剣に打ち込んできた人だからこそ、重みのある言葉です。今後もこの焼き方を変えずに焼き続けていきたいと淡々と語ります。
静けさの奥に絶えず燃え続ける情熱を感じました。

木のひげ
東京都多摩市愛宕4丁目9−7
ハロッズプラザ 1F
TEL:042-313-9208
月〜土(10:30−19:00)
日(12:00−19:00) 不定休


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