私たちにとってあまりにも身近で、その存在意義を深く考える機会の少ない「お米」という食べ物。
前回は食糧生産のみに留まらない田んぼや稲の役割、そして自然栽培を育てる意義を三回に分けて考えてみました。
今回はお米と品種の関係を、歴史をたどりながらお伝えしていきます。
前回記事「自然栽培でお米を育てる理由」
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「お米と品種の関係」
品種の歴史
縄文時代に渡来したと伝えられている稲。三千年という時間を経て全国各地域の風土に定着した品種が育てられ、明治時代に農事試験場が設置される際に全国から集められた品種は四千種にも及んだそうです。日本で本格的な米の品種改良が始まったのは明治36年のこと。それまでの品種改良の基盤は、篤農家の経験値に基づいた民間での選抜育種でした。
江戸期以前から明治期初期まで、水田には山野の草や広葉樹の若芽が肥料として使用されていましたが、草肥の収集に多大な労力がかかること、刈敷山の私有化・国有化により採草できなくなったことによって、肥料は購入する資材となりました。草肥にかわり魚肥や植物油粕が普及し、明治末期には化学肥料も使用されるようになりました。
しかし、化学肥料の使用によって草丈が高い在来稲は倒伏しやすく、また人口増加による主食の需要量が増えていったため、耐肥性と穂数が多い品種が求められるようになりました。耐肥性の大きい品種は草丈も高くなく、肥料を与えても必要以上に伸びません。また光合成の効果を得られるように、葉は短く直立しているような多肥に適合した品種は、光が根元まで差し込むため、雑草が繁茂しやすくなります。そのため除草剤が必要になり、近代品種は種・肥料・農薬をひとまとめにしたものが増収の条件を備えることになっていきました。
昭和戦前期になると、メンデルの法則に基づき、優れた特性を持つ品種を人工交配して選抜し、育成した交配育種が行われるようになりました。近年では、地球温暖化の影響に備え、暑さに強いお米が次々と販売されています。遺伝子組み換え稲の開発も国内外で進められ、除草剤耐性を持つお米や花粉症緩和を目指すお米など研究が行われています。
高度経済成長期ごろまでは収穫量を目的とした品種開発が、米の生産過剰が顕在化した1970年頃からは、美味しさをより重視する傾向へと変化していきました。そしてまた新たな価値観を付与すべく、開発が進められています。
ササニシキ
ナチュラル・ハーモニーでは、ササニシキを多く取り扱っています。1963年、宮城県で生まれたササニシキは、東北を中心に作付面積を増やしていきました。しかし、1980年に起こった大凶作の影響で、冷害に強い品種のニーズが起こり、耐冷性のあるひとめぼれが誕生しました。ササニシキは現代農法と化学肥料との相性も悪く、ひとめぼれがササニシキの作付面積を超え、ササニシキの生産量は減少していきました。
市場にあまり出回らなくなったお米ですが、私たちはササニシキに含まれるデンプンに着目しました。デンプンは構造が異なる「アミロース」と「アミロペクチン」の二種類で構成されます。アミロースの割合が高いと粘りが少なく、低いと粘りの強いごはんになります。栽培条件でも異なりますが、ササニシキのアミロース含量は約20%、コシヒカリは約16%という値を示します。ササニシキが、粘りが少なくあっさりした印象なのはそのためです。今でこそ粘りのあるモチモチのお米が人気ですが、在来稲と呼ばれる明治期に選出されたお米のアミロース含量は20%以上。さっぱりとした軽いお米だったからこそ、当時「一人で米一石」(一日五合)食べていたとも推測されます。アミロースを含まないもち米がハレの日の特別な食べ物とされていたのも納得ですね。ササニシキは元来食べられていたお米の性質に近く、かつ、粒立ちが良く程よい甘みも感じられるバランスの良いお米としてご提案しています。
それぞれの時代が求める要素が投影されてきた品種開発。しかし、自然栽培に取り組む生産者は、時代や流行に流されることなく種を選び、風土に根ざすいのちの味わいを追求するため、自然栽培・自家採取の継続によって種が土地に馴染み本来の生命力が発揮されるよう取り組んでいます。そんな生産者の姿勢を、これからも応援していきたいと思います。
■参考資料
○「稲 品種改良の系譜」(法政大学出版局 菅 洋 著)
○「日本の在来稲とその現状」(公益社団法人 米殻安定供給確保支援機構)
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