石綿 敏久さん 信之さん…1951年生まれ。1987年生まれ。ともに神奈川県小田原市に育つ。
きっぷがいい兄貴肌な父とおだやかで控えめな息子は、他を思いやる優しさにおいて、まるで瓜二つだ。時にぶつかりながらも互いを認め高めあうこの名タッグからは、これからも目が離せない。
「カチャンッ」「カチャンッ」
澄みわたる冬空に、軽快な音がこだまする。園内に張りめぐらされたワイヤーに、とめどなくキウイの枝が固定されていく。
「こうしてバンドで留めておかないと、風で枝が折れちゃうんです。手を抜いて最後に困るのは、自分なんで」。27歳の若き農家跡継ぎ、信之さんは笑った。
楽しそうに作業する信之さんだが、もともと農家を継ぐ気はなかった。その思いは父の背中をみて募り、また背中をみて、変わった。
親子には皆、それぞれのドラマがある。
父・敏久さんは、日本で初めて自然栽培のキウイづくりに成功したといわれる先駆者だ。300年以上続く農家の15代目にあたり、キウイの他に柑橘類や梅なども栽培している。農業高校を卒業したあと、20歳で跡を継いだ。
「最初の2・3年は、俺も農薬バリバリでやってたよ。スプリンクラーで農薬まく方法まで出てきて、すげえ時代になったなって、そう思ってた」
そんな折、従来の農業のあり方に疑問をもつできごとが起こる。みかんを選果場に持っていった時だ。
「うちでも一番甘くて美味しいものを持って行ったのに、評価の点数が低かったのよ」。職員にたずねてみると、皮の見た目こそがすべての評価軸だった。
「捨てる皮のために消毒して、評価されてさ。味や中身なんかどうでもいいのかよって」
当時の農薬は体への負担が大きく、敏久さん自身も散布した翌日は1日寝込むことすらあった。何とか農薬を減らしながら品質を向上させる手立てはないか――参考になる農家も周りにはいない。たった一人、みちなき道を歩みはじめた。
模索するなか、微生物を使った堆肥づくりと出合い、有機栽培に取り組みはじめた。7年の間に、農薬の使用量はもとの半分ほどに減った。ほどなくして、自然栽培の存在を知る。農薬も肥料も使わないという常識からかけ離れたその栽培法にも、抵抗より興味の方が勝ったという。
「その頃には肥料を使わないでも育つ土に変わってたから、頭も畑も無理なく切り替えができたんだ。なにより、それで作物ができんなら得じゃんって思えちまう人間だからな」
まずキウイの自然栽培をはじめた。栽培技術も確立されておらず、試行錯誤の連続だった。そんな中、体験を通じてある仮説をたてる。「肥料や堆肥が、病気や害虫を引き寄せる原因なのではないか」。真偽のほどは自分で試すしかない。無謀ともいえる、とんでもない行動に出た。
それは、果樹農家がもっとも恐れる病気のひとつ「かいよう病」に感染したキウイの枝を、感染していない自然栽培キウイの樹に接ぐというものだった。この病気は感染力が強く、剪定バサミ越しはもちろん空気中でも感染し、最悪の場合は園地を全滅させてしまうことすらある。だが、予想は的中した。自然栽培の樹には一切感染しなかった。念のため昨年までに3回試みたが、一度として病気の症状はあらわれなかった。
「あの実験ではっきりしたんだ。本来、植物は病気になんてかからないのよ。人間が欲張って栄養をあげ過ぎたり不自然なことするから、植物は体調を崩してただけなんだ」
そして、これまで土に施してきた肥料や堆肥の栄養分を抜くため、積極的に牧草類をまいた。無数にのびる根は土そのものを柔らかくし、果樹の生育にもはずみがついた。自信は、確信へと変わっていった。
一方で、大きな弊害もうまれた。農村はせまい世界だ。周りと違うことをしていれば、その姿は好奇の目にさらされる。専業農家で、地元の名家にあたる敏久さんの行動はなおのこと目立った。誹謗や横やりに、孤独と悲しみの影がつきまとうようになった。
新たな問題も発生した。開発事業や農地の農薬散布に追われた動物たちが、敏久さんの無農薬の作物を食害するようになった。過疎化もあって猟師が減るなかでは、農地を守るには自分で猟をはじめるよりほかない。罠の免許を取ってからは、他の農家からも駆除を頼まれるようになった。男気というより、地域との「結びつき」を守るために、断るわけにはいかなかった。
多忙を極めるなかで、家にいる時間は一層少なくなった。すれ違いから、家族と衝突することもあった。息子・信之さんの目には、父の背中が遠く霞んでいくように映った。
信之さんにとって、忘れられない出来事がある。6年前、お姉さんを亡くした日のことだ。
「うちの親父は泣かないんですよ。でも、泣いてるとこを初めて見たんです」。姉のことで喧嘩する家族をみてきて、素直に父と姉を愛することができなかった。亡くした悲しみは限りなく深かったが、改めて、家族の大切さを感じることができた。
「やっぱ、家族だったんだなって。親父はいまでも、財布の中に姉の写真を入れているんです」
大切な人の死は、遠ざかりかけた親子の絆を、ふたたび結びつけた。
「大学3年生で、卒業後の進路に悩んでいる時でもありました。本当にやりたいことは何なのか、社会の役に立てることは何なのかって。悩みに悩んだ末に、農家を継ぐことを決めました。これが、自分のやりたいことなんだって」。今では害獣駆除のおおくを信之さんが担い、農作業の責任分担も増えてきた。忙しく働くことで、苦しい気持ちも少しずつ紛れてきたという。
「打ち込めるだけのものだから、没頭できているのかもしんないですね。親父も口には出さないですけど、おんなじように葛藤して、頑張ってるのかなって」
痛みや苦労を分かちあうことで、二人の距離は縮まった。天国にいるお姉さんも、きっと微笑ましく見守ってくれているにちがいない。
自然栽培の成功もあり、敏久さんのもとには海外からも頻繁に視察団が訪れるようになった。周りのみる目も少しずつ変わってきたという。
それでも、二人はそれが、そう簡単に普及できるものとは考えていない。地域に根ざし、周囲と調和をはかりながら結果を出し認められる難しさを、誰よりも知っているからだ。だからこそ、次なる有志へと想いのバトンを繋ぐことも怠らない。自身が会長をつとめる自然農法小田原普及会では、栽培法を超えて様々な生産者と交流をつづけている。小学校での農業指導に至っては、信之さんが通っていた時から継続しており、今年で18年目になる。こうした活動の充実ぶりも、信之さんの手厚いサポートがあればこそだ。
「こいつが畑の写真とか撮りまくってるからよ。おめぇなんだ写真屋か、なんてな。でも、講演とかでそのデータが役に立つんだわ。説得力が出る。そういう意味では重宝してるよ」。不器用な父は、素直に息子を褒めたりはしない。だがその言葉には、理解しついてきてくれる喜びが、隠しようもなく滲み出ていた。
ふと、後ろから並び立つ二人を見た。
その背中は、私にはそっくりに見える。
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