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我、四十にして主夫となる

未来は僕らの手の中

2024.06.17

ご無沙汰しております。イシマンです。

書きたいことはあったのだけれども、なんか気が乗らなくてサボってしまった。
それは、子育てのコト。

主夫なんてタイトルを掲げているんだから、ありふれたテーマの「子育て」に思われるかもしれないが、否。自分の子育てではない。

「子供を育てる親たちと社会の在り方」について。

少し前のコト。

出先の仕事を終えて夕方の地下鉄に乗ることに。本来であれば帰宅ラッシュを避けるように乗ることが多いのだが、その日に限って駆け込みのお客様に対応していたら遅くなってしまい、夕飯の支度を考えながら地下鉄へと駆け込む。
案の定、17時半も超えてしまうと車内の様相は日中とは異なる。帰宅ラッシュのスタート。

文庫本を読みながら帰宅までの1時間弱を過ごすことになるのだが、居合わせた車両で赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
チラと見やると20代前半の女性が2組。

一人は抱っこひもに赤ちゃんを抱え、胸元の赤ちゃんをあやしている。
もう一人の女性も赤ちゃんが泣き止むようにと、赤ちゃんの顔を覗き込みながら試行錯誤。両手には大量の荷物。
電車のアナウンスは次の駅を知らせている。

東京の地下鉄は驚くほどに駅間が短い。
冗談抜きに「あっ!」という間に次の駅。銀座と東銀座、上野と御徒町の存在意義が田舎者にはわからないほどに近い。
次の駅に着くとイシマンの前に座っていた男性が降車する。

降りた男性の席に自分のリュックを置き、振り返りながら赤ちゃんをあやしているお母さんを呼ぶ「赤ちゃんのお母さん!コッチ!コッチ!」と。満員電車の中で。

人に席を譲ること。
一般的に難しく思われがちだ。

自分の子供たちにソレを道義的に伝えても、行動に移すことまでを伝えきれているかというと……。席に座ってほしい妊婦さんやご老体、さまざまあれど、自分が譲れる席を持っていない時点で無理だ、座っている誰かに「席をゆずってあげなさいな!」なんて心臓に毛の生えた行動は慎まれる世の中。
仮に、譲れる席を持っていたとしても先方に断られたらどうしよう?失礼にあたったらどうしよう?「次でおりますんで、だいじょうぶです」とか「私はそんなに年をとっておりませんっ!」とか。

世には「よけいなお世話」が存在する。
なんとも世知辛い。

私にもあるだろう。きっと。
仮にだ、仮に。
私の「おしり」に大きなオデキがあったとしよう。
席を譲られた私は笑顔で

「ありがとうございます~」

「でも……。」

「だいじょうぶですよ~」

て、感じの対応をするだろう。
「よけいなお世話なんだ」結果的には。

でも、だ。

結果がすでに判っている人間関係なんて正直いって、ナイ。

(あっ!妊婦さんだ!)
「この席、座ってください~!」

(コイツ、私のコト妊婦だと思ったな。怒)
「あ。ダイジョウブなんで。」

これって、すべて、「ゆとり」かなって思うんです。
「ゆとり」なんて言葉を聞くと我々世代では「ゆとり教育」なるものがあったのでネガティブなイメージがあるかもしれませんが、謂わんとするところは「ココロのゆとり」。

これはあくまでイシマン個人の感想なのだが、世の中の「ゆとり」=「あそび」が減ってきている。

「あそび」≠「遊び」である。

車を運転する人ならハンドルの「あそび」は理解しやすいだろう。
ハンドルを僅かに右なり左なりに傾けようとも車は左右しない、それは取りも直さず、高速運転しているときに微細なハンドル操作で車が左右してしまってはアっという間に横転してしまう。

ココロにゆとりがあれば、肥満気味の身体を謳歌して堂々と席にあずかることもできよう、ないしは、ウィットなジョークをかまして席を辞することもできよう。

職場、学校、社会のストレスが人間の「ゆとり」を奪っていく。

政治も同じ。

与党が予算や法案を作り可決するのだが、それだけなら野党の意味はない。
抗っても、多数決で成立するのだから。

否。

野党が抗う時間、野党が質問することで知れる事実。

急ハンドルで右に曲がるのではない。
実際は左に右に曲がる際に、「ゆとり」がある。それが人の良きところだろう。
人以外の動物にもあるかもしれないが、脳が発達した人はそれが顕著なはずだ。

閑話休題。

赤ちゃんのお母さんを席に座らせ、お連れの女性の荷物をイシマンが網棚にあげる。
赤ちゃんは泣き止まない。
隣の席の紳士は「だいじょうぶですからね~」と、お母さんに声をかける。
赤ちゃんの泣き声に気を病む彼女たち。気休め程度になればと、イシマンから声をかけて会話をしていると、なんとなく状況が解かる。

二人は姉妹。
赤ちゃんは月齢三ヶ月。
ディズニーランドの帰り。

話している間にも、赤ちゃんギャン泣き。

お母さんは席から立ち上がり、小刻みなジャンプをして抱っこしている赤ちゃんをあやす。三ヶ月ならまだ首が座って間もない赤ちゃんをだ。(イシマンの心持としては、いますぐ小刻みジャンプをやめさせたかったが、ヤバいオジサンになりそうだったのでギリギリ堪えた)
小刻みな赤ちゃんヘッドバンキングを経由して、なお、赤ちゃんは泣き止まない。
お母さんの背中トントンや、若きお母さんの持ちうる術の全てを駆使してもダメだ。

再び、赤ちゃんの首は大きく揺さぶられることになる。

「赤ちゃんが泣くこと」= 雑音

なんか、構図が見えてしまった。

これは、お母さんに限った固定概念。

あくまで、お母さんが考える「他者が抱く感覚」として。
メディアやSNSに植え付けられてしまった概念ともいえる。いや、このほうが強かろう。

そういう概念をもつ、そんな、お母さんが悪いなんて話ではない。
この概念を持つに至るには逆算すると周囲の「無関心」だろう。

無関心は社会を生き抜くうえで大切な技術である。
「君子、あやうきに ちかよらず」。

でも、君子はこんな場面を危うきと思いはしていないだろう。
君子なら子は賜物として、すべての子を愛するのではなかろうかと勝手に思う。

大人は、俺たち・私たちのおかけでお前たちがいるという、生物における種の保存における後先を言いがちだが、それこそ「よけいなお世話」。

貴様らも赤子の時分に、泣きわめき、おしっこ漏らして、ウンチして、おっぱいをもらっていたのだ。
それが、たかだか十数年の年月の違いで。

「未来」という言葉を、考えてしまう。

自分の未来、家族の未来、社会の未来。
いろんな未来があるだろう。

自分は一人称、家族は二人称以上、社会はそれ以上の未来。

株式投資やNISAと騒ぐ政府、その投資先はどこだろう?
海外の子供たち(いつかの社会人)への投資だろうか?

身近な子供たちへの無関心を棚上げにして、自分に利のある投資をして自分の未来を描く。

それで、いいのだろうか?

結果的に赤ちゃんとお母さんたちは次々駅で降りることになる。それは彼女たちの目的地ではない。見えない圧に押されて降りたに過ぎない

私の行動は決して褒められるものではない
八割、ありがた迷惑だったことだろう
いいよ
たぶん
そんな大人が減ったら
こどもの居場所が減るから
偏屈でもよかろう
SNSで炎上しても大丈夫
SNS
やってないから、ほとんど

お節介なアナタへの応援歌でした。

おしまい

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