反田 孝之さん…1970年島根県江津市うまれ。土木業に従事した後、新規就農。
「土」という字を入れたくて、お子さんの名前は「丈土(たけと)」と「祐土(ゆうと)」と名付けた。
ごぼう栽培と稲作に取り組んでいる。
「ごぼうが美味いってだけで、ただ美味いってだけで褒められて。本当に幸せだなぁって噛みしめるんです。そんな大した人間じゃないんだけど、とか思いながら(笑)」
好物のごぼう料理が載る食卓を囲みながら、反田孝之さんが語った。
瑞々しく感じるほど柔らかな繊維を噛み締める。土の香りと甘さが口に広がる。外見からは想像できない繊細な味わいが反田さんのごぼう。毎年の入荷が待ち遠しい野菜だ。
島根県江津市。中国地方最大の河川「江の川」に注ぐ支流が山々からのびる。切り立った渓谷に囲まれ、わずかに残った平地が点々と耕作されている。反田さんは、この場所でごぼうとお米の自然栽培に取り組んでいる。
猛々しいのは景観だけに終わらず、3〜4年に一度の割合で江の川は氾濫し、農地は文字通り水没する。氾濫が起これば、畑の土が酸欠をおこし作物が被害を受け、その年収穫は半減する。
しかし、反田さんはこの畑を「奇跡の土」と呼んでいる。氾濫が運んできた砂壌土が積み重なった層は、何メートル掘っても大きな石や堅い粘土層に当たらない。下に下に伸びるごぼうは、硬いものや障害物があると育たない。だから、ごぼうを育てるには最適な農地ともいえる。山から流れてきた土砂を土壌分析したところ、養分らしい養分は見当たらず、自然栽培に取り組む反田さんは胸を撫で下ろしたという。
「リセットされてしまうけども、洪水があることを悔やんでも仕方ないです。逆に洪水のない年にしっかり儲けておこう! と気合が入りますね」
物心ついた時から山が好きで、学校が終わればいつも自宅近くの裏山に登っていた。登頂することが目的といえば目的だったが、反田さんは登山道を使うことはなく、「ここ」と決めた場所から薮をかき分け、一直線に登る。人の入らない場所を進むということが何より楽しかった。ただ、当時の反田さんの周りには「探検」に共感してくれる同級生がなく、つまらなかった。「故郷を出たい」。そんな気持ちが沸き、地元から離れた高校を受験して家を出た。
好きな山の勉強ができると、大学では森林科学を専攻した。在学中も全国の山々を渡り歩き、たくさんの農村風景を眺めてきた。そうしてるうちに農業に興味を持つようになったが、自ら飛び込む勇気は当時はなく、農業研修に進むことを決めた友人を羨ましくも思った。
造園会社に就職を決めていたが、「家の仕事をやりながら、農業する道を模索しないか」と父親に言われ、大学卒業後は故郷に戻る。しかし家業である土木の仕事はめまぐるしいほど忙しく、とても農業に関われる状況ではなかった。このままではいけないと、28歳の時に改めて就農を決意し再び家を出る。農業研修を受け、田畑を借りて自己研修にも取り組んだ。
5年が経ち、本格的な営農を考えていたところ、当時の桜江町役場から声がかかる。耕作放棄地を畑に戻すことを条件に、広大な面積の耕作地を借り受けられるというものだった。地元で就農することを決めた。
農薬を使いたくなかったこと、また控えていた取引先が有機JAS認証が必要だったことから、有機栽培に取り組むことになった。農地は広大な10ヘクタールにも及んだが、反田さんは「死ぬ気でやればなんとかなる」という気持ちで、まず1年、もう1年と作を積み重ね、毎年収穫量を少しずつ増やすことができるようになっていた。しかし、ごぼうの栽培には行き詰まりを感じる。
「ごぼうは連作しようとするとうまくいかなくて。地元では6年空けろと言われていました。そうすると1ヘクタール分のごぼうを育てるのに7ヘクタールの土地が必要になる。その間は何も育てることができないし、負債を抱えるのと一緒ですよね」。水害やいのししの問題もあり、他の作物に手を出すこともできなかった。
ある時勉強会に誘われ、自然栽培を知る。「養分供給するから連作ができない」。そのとき聞いた言葉が、自然栽培を始めるきっかけだった。
「自然栽培に出会う前は、野菜の味は人の腕によるものだと思っていました。だから、有機肥料を自分でつくったり、土壌分析したり、ごぼうを貯蔵してみたりと様々工夫しましたね。そうやって味はそこそこのものになったんだけど、そこそこ止まりだった。自然栽培に出合って、人間の腕の見せ所はないんだ、いらんことをしていたと思うようになりましたね」
肥料を駆使して収穫にこぎつけるのではなく、自然界の原理原則を落とし込み、肥料なしでも収穫できる管理を意識するようになった。最も神経を使うのはごぼうが畑にない時期、土づくりは必死だ。逆に、ごぼうの種を蒔いた後は、お任せするような楽な気持ちになったそう。
有機栽培のごぼうも美味しいと思っていたが、自然栽培のごぼうは腐りにくく、より美味しくなった。
「昔食べた味だ、なんて言われるともうゾクゾクしますよ。文献を調べてみたら、ごぼうの一大産地で50トンも100トンも出荷していた記録があるんです。しかも連作していた。古老に聞けば、戦前は自然栽培だったんです」。洪水のあるこの土地ではいま、農業は斜陽産業に留まっている。しかし「奇跡の土」を生かし、この場所を再びごぼうの産地にすることが反田さんの夢でもある。
生育や作業内容はこれまでずっと記録を続けてきた。どの圃場でどのくらい作業しているか、どこに無駄があるのか、細かなデータ収集にも尽力している。
「自分はものすごく運がいいと思うんです。だから勘違いしたら終わりだ!と思うようにしています。いつも緊張感をもってやっていますね。代々続いている農家の感性とは違う新規就農の人間だから、どうしても感覚だけではわからない部分がある。だからこういうことが大切だなと」。
生産者を増やすためにも、経営の型をつくるのに一生かけてゆきたいと語る。
現在は夫妻2人体制での取り組み。お子さんが風邪をひいた時などは、奥さんが作業を離脱せざるを得なく、途端に計画が狂ってくる。
「大変ですよ(笑)。でも、そういう場面をなんとかしのぐと幸せだね〜なんてふと思えるようになりました。自然栽培を知ったから、病気をしても『身体を治しているんだ』と思えば気が楽になりました。原理原則が生活に落とし込める部分が多すぎる。あまりにもすとーんと落ちんです」
今の生活に豊かさや充足感を感じるからこそ、農業者だけでなく消費者にも自然栽培を広げたい、伝えてゆきたいと反田さんは言う。
「好きな農業で生計を立てていて、大好きな家族がいて。ただただ感謝です。それに見合うような人生送らにゃいかんって思います。それよりもこんなに面白いこともう辞められません(笑)」
new articles