ナチュラルハーモニーの食材や食品をつくる
つくりてに話を伺いました。
#04 秋田県南秋田郡大潟村阿部 淳さん
減反を乗り越えなおも進む農の道
大学を卒業し、夢で描いた「世の中」に飛び込んだ。
「これが現実か。こんなはずじゃなかった」。会社でも、農業でも、仕事に価値を見出すことができない。「自分の人生はこれでいいのだろか?」。25歳の阿部 淳さんは自問自答を重ねていた。
大潟村。「元」湖で「現」村。国営事業によって誕生したこの村は、八郎潟という外周82キロメートルにも及ぶ巨大な湖だった。「主要食料である米の増産」という目的のもと1957年に干拓工事が始まり、7年の歳月を費やし、湖に大地が浮かび上がった。集まった580人の入植者たちには、住居と水田が分配された。同県内で農業を営んでいた阿部さんの父親も、大規模農業に夢を馳せ、第一次募集で入村した。
会社員を経て、父親とともに米づくりをはじめた。ほどなくして結婚。子宝にも恵まれ、経営の舵を渡された。一見順風満帆。だが内側は悶々としていた。消費者と接する機会もなく、収穫した米をひたすら出荷するだけの仕事。自分の米がどこへ行くのか知るよしもなく、本当にそれが必要とされているのかもわからない。そんな農業に展望を開くことができなかったという。
1970年からはじまった米の生産調整。広大な水田があるにも関わらず、入植者たちは米づくりを阻まれるという現実に直面する。阿部さんは減反反対の姿勢を貫いた。
「いろいろな矛盾を減反政策に感じたんだよ。それなら補助金もいらないから、自立して自分のお米を自分できちんと売ろうと。自分で考え自分で動くことの面白さ、創意工夫して営農することの大切さを学びましたね」。阿部さんは、人生を夢中になって駆けだした。
東京などに出向いて米を売り歩き、消費者との距離が縮まってくると、安全な食料を安定的に生産したいという想いが強くなってきた。そこで環境問題、とりわけ水に注目するようになる。
「大潟村は八郎潟の水を循環利用していて、何もしなければ汚れていってしまう。だから早くから合成洗剤の使用を禁止したり、廃油から石けんを作ったり、住民の意識は高かったね」
仲間とともに「馬場目川上流部にブナを植える会」を結成したのは1993年のことだ。山林の広葉樹の落葉が積み重なると、それは腐植土となり、腐植土は雨水をたっぷりと蓄える。水は地下に染み込み、やがて河川となり、広い範囲で生きものをはぐくむ源となる。会では毎年、大潟村の水源となる国有林にブナを中心とした広葉樹を植える。自宅でも奥さまと手分けをして寄付金の入金処理や案内発送などの管理に相当な時間を費やしているそう。「母ちゃんに呆れられたらもう終わりよ。よその旦那もやらない金にならないようなことやってるんだもんね」とはにかむものの、その活動を20年以上続けている。
「木を植えはじめてから、人間ってやっぱり自然に生かされてるんだなって感じられるようになったんだね。人間が木を植えてるんだけど、逆に自分たちが木に育てられてるなって」。木の生育や水の行く末を考えるようになったら、自分のライフスパンを越えて、子や孫の未来を思うようになった。
環境保全に価値を置き活動してきた阿部さんは、自身にもその「価値」を自問する。「毎年、お米が稔って黄金色に輝くのを目前にして、今年も自分は生きることを許されたのかな、とやっと思うことができるんだよ」
「今日まであっという間だったね。気がついたら60になっちゃった。孫が5人だもの」。そんな阿部さんの「死ぬまでにやりたいこと」は物々交換のシステムを創ることだそう。「世の中にお金以外の価値観があってもいいじゃない」。阿部さんの顔が輝いた。いったいいつそんなことを思いつくのか訊ねると「コンバインの上で考えるんだよ。暇だからね!」と照れくさそうにいった。
「ブナを植える会」で植林された木は、17000本以上にのぼる。